武蔵小杉は神奈川県、武蔵小金井は東京都、武蔵浦和は埼玉県。同じ「武蔵」なのに3つの都県に散らばっているのは、武蔵国がその3都県にまたがっていたからです。関東にはかつて8つの国があり、その境目は今の県境とずれています。まず8国と今の都県の対応をまとめました。
先に結論|関東の旧国名8つは今のどの都県か
| 旧国名(読み) | 今の都県 | 名前が残る地名・路線 |
|---|---|---|
| 武蔵(むさし) | 東京都の大部分(島と東端を除く)・埼玉県・神奈川県の川崎市と横浜市の大半 | 武蔵小杉、武蔵浦和、武蔵野市 |
| 相模(さがみ) | 神奈川県のうち川崎市・横浜市を除く地域 | 相模原市、相模湾、相模線 |
| 上総(かずさ) | 千葉県の中部 | 上総一ノ宮、上総牛久 |
| 下総(しもうさ) | 千葉県北部+茨城県南西部+埼玉県の東端+東京都の東端 | 下総中山、総武線 |
| 安房(あわ) | 千葉県の南部 | 安房鴨川、房総半島 |
| 常陸(ひたち) | 茨城県のうち南西部を除く地域 | 常陸太田市、常磐線 |
| 上野(こうずけ) | 群馬県のほぼ全域 | 上州、上信電鉄、上越線 |
| 下野(しもつけ) | 栃木県のほぼ全域 | 下野市、野州、両毛線 |
※ 東京都の伊豆諸島は伊豆国、小笠原諸島はどの令制国にも属していません。この8国は本州側の区分です。
なぜ8つの国が1都6県になったのか
国が8つで、今の都県が7つ。数が合わないのは、明治の県が令制国の境目を引き継がなかったからです。1871年(明治4年)の廃藩置県は、江戸時代の藩をそのまま県に置き換える作業でした。藩の領地は入り組んでいたので、いきなり300以上の県ができます。そこから数か月で統合が始まり、このときの県境は令制国の境ではなく、川と、役所が管理しやすい面積で引かれました。
関西でも同じことが起きています。大阪府は摂津・河内・和泉の3国からできていて、摂津国は兵庫県の神戸・尼崎まで伸びていました。境目の引き直され方は和泉=堺より南、河内=東部、摂津=北部|大阪の旧国名で具体的に見られます。
埼玉県は最初「荒川より東」しかなかった
埼玉県が公開している県民の日の説明に、成り立ちがはっきり書かれています。埼玉県が誕生したのは1871年(明治4年)11月14日。ただし当時の県域は荒川より東の地域だけで、荒川の西側は「入間県」という別の県でした。その入間県は1873年(明治6年)に群馬県と合併して「熊谷県」になります。今の川越・所沢・秩父は、一時期、群馬県だった土地と同じ県庁の下にありました。武蔵国と上野国が同居していたわけです。
県が今の形になったのは1876年(明治9年)、埼玉県と旧入間県が合併したときです。誕生時の埼玉県の人口は889,492人と記録されています。約150年で県の人口は8倍を超えました。
下総国は千葉・茨城・埼玉・東京の4つに割れた
千葉県は1873年(明治6年)6月15日、木更津県と印旛県が合併して生まれました。木更津県が上総と安房、印旛県が下総の西半分にあたります。さらに1875年(明治8年)、下総3郡と常陸6郡でできていた新治県が廃止され、下総側の香取・海上・匝瑳の3郡が千葉県へ、常陸側は茨城県へ移りました(千葉県公式サイトの沿革より)。下総が今も千葉・茨城・埼玉・東京にまたがって見えるのは、こうした分け直しが何度も重ねられたからです。
境目に選ばれたのは、どちらも川です。その結果、下総国は今の千葉県・茨城県・埼玉県・東京都の4つにまたがる形になりました。茨城県の古河市や結城市、東京都の隅田川より東側は、もともと下総国です。国の中心だった下総国府は市川市の国府台に置かれていたので、まとまりの核だけは千葉県側に残りました。
上総と下総、なぜ北にある下総が「下」なのか
ペアになった国名の「上」「下」を分けるルールそのものは単純で、都に近いほうが「上」、遠いほうが「下」です。上野(群馬)と下野(栃木)はこのとおりに並んでいます。ところが上総と下総だけは、地図と逆に見えます。
古代の東海道は、東京湾を船で渡っていた
房総半島へ入る正規のルートが、陸路ではなく海路だったためです。相模国(今の神奈川県)の走水から船で東京湾を渡り、房総半島の南寄りに上陸する。この渡海の場面は『日本書紀』のヤマトタケルと弟橘媛の伝承としても伝わっています。船で先に着く南側が上総、その奥が下総。順番どおりの命名でした。
陸路が主役になるのは、もっとあとです。武蔵国はもともと東山道に属していましたが、771年(宝亀2年)に東海道へ移され、相模から武蔵を通って下総へ抜ける陸路が整えられました。ここで「先に着くのは下総」に逆転します。それでも国名は入れ替わらず、海の時代の順番が1200年以上そのまま残りました。
上野と下野は、陸路の距離どおり
群馬と栃木のほうは素直です。もとは「毛野(けの)」と呼ばれる一つのまとまりで、これが上下に分かれて上毛野・下毛野になりました。都に近い南西側が上毛野=今の群馬県、遠い北東側が下毛野=今の栃木県です。
のちに表記から「毛」の字が落ちて「上野」「下野」になりますが、読みには「け」が残りました。こうずけ、しもつけ。字を消しても音が消えなかった、という珍しい残り方です。両毛線という路線名は、この「両方の毛野」をそのまま名乗っています。
迷ったときの見分け方
関東で覚えることは2つだけです。ひとつ、「上」は都に近いほう。ふたつ、上総・下総のペアだけは陸路ではなく海路で測るので、南が上になる。これで上総・下総・上野・下野の4国は取り違えずに済みます。
ついでに、東京の上野(うえの)は武蔵国の豊島郡で、上野国(こうずけ)とは関係がありません。読みが違えば別物、と切り分けておくと混乱しません。
武蔵国が東京・埼玉・神奈川の3都県にまたがるねじれ
8国のうち、いちばん今の県境と噛み合っていないのが武蔵国です。北から南へ、3つの都県に切り分けられました。
武蔵国はどこで3つに割れたか(北から南へ)
① 埼玉県(東端を除くほぼ全域)
さいたま・川越・所沢・秩父。県の東の端だけは下総国。
↓
② 東京都(23区と多摩。島は除く)
隅田川より東側は下総国。伊豆諸島は伊豆国。
↓
③ 神奈川県(川崎市の全域と横浜市の大半)
横浜市でも戸塚・栄・泉のあたりは相模国。国の境は市の境と一致しない。
武蔵国と相模国の境は多摩川ではありません。多摩川を越えた南側、今の川崎市と横浜市の北半分(かつての橘樹郡・都筑郡・久良岐郡)まで武蔵国でした。「川崎は神奈川県だから相模でしょう」という思い込みが、ここでいちばん外れます。
多摩は1893年まで神奈川県だった
東京都の西半分、いわゆる多摩地域も長く神奈川県でした。明治のはじめに多摩郡は東京府と入間県に分けられ、その後、当時の神奈川県令だった陸奥宗光の上申で全域が神奈川県に移されます。西多摩・南多摩・北多摩の3郡が東京府へ編入されたのは1893年(明治26年)。今の東京都の形になってから、まだ130年ほどしか経っていません。
一方、東多摩郡だけは早い時期に東京側へ入り、のちに東京市へ編入されて今の中野区・杉並区になりました。同じ「多摩」でも行き先が分かれています。
8つの国は、今のどこにあたるのか
武蔵国・相模国(東京・埼玉・神奈川)
武蔵国は東京都のうち隅田川より西側と多摩地域、埼玉県のほぼ全域、神奈川県の川崎市と横浜市の大半。相模国はそこから外れた神奈川県の大部分で、小田原・平塚・厚木・鎌倉・三浦がここに入ります。相模国の国府がどこにあったかは平塚説・大磯説・海老名説があり、決着していません。
上総国・下総国・安房国(千葉ほか)
上総国は千葉県の中部で、市原・木更津・君津・茂原あたり。下総国は千葉県北部に加えて茨城・埼玉・東京の一部。安房国は千葉県の南部で、館山・鴨川・南房総がここです。
安房国は最初から独立していたわけではありません。718年(養老2年)に上総国から4郡を割いて分立し、741年(天平13年)にいったん上総国へ戻され、757年(天平宝字元年)に再び分かれました。房総半島の「房」は安房、「総」は上総・下総から取られています。
常陸国(茨城)
常陸国は茨城県のうち南西部を除いた地域です。除かれるのは古河市・結城市・猿島郡のあたりで、ここは下総国でした。国府は今の石岡市にあり、「常陸国府跡」として国の史跡に指定されています。
上野国・下野国(群馬・栃木)
上野国は群馬県のほぼ全域で、栃木県足利市の一部にも及んでいました。下野国は栃木県のほぼ全域で、群馬県桐生市の一部を含んでいました。足利と桐生は隣り合う街ですが、国の境はその間をまっすぐには通っていません。下野国の役所跡は栃木市田村町で発掘され、8世紀前半から10世紀初めまで使われていたと推定されています。
もうひとつ、上総・常陸・上野の3国には共通点があります。826年(天長3年)から、この3国は国のトップである「守」に必ず親王が就く決まりになりました。親王は現地へ赴かないので、実務のトップは「介」です。上総介・常陸介・上野介という官名が有名なのはこのためで、忠臣蔵の吉良上野介の「上野介」もこの官名です。群馬に領地があったからではありません。
「総武」「常磐」「両毛」…旧国名は路線名の中で生きている
関東の旧国名は、日常でいちばん目にするのが鉄道の路線名です。
| 路線・地名 | 元になった旧国名 |
|---|---|
| 総武線 | 上総・下総の「総」+武蔵の「武」 |
| 常磐線 | 常陸の「常」+磐城(福島県東部)の「磐」 |
| 両毛線 | 上毛野・下毛野の「両方の毛」 |
| 上越線・上信電鉄 | 上野の「上」+越後・信濃 |
| 内房線・外房線 | 安房の「房」 |
武蔵小杉(神奈川県)、武蔵小金井(東京都)、武蔵浦和(埼玉県)。この3駅を線で結ぶと、それがだいたい武蔵国の広がりです。「武蔵」を頭に付けた駅名は、同じ地名が他県にもあるときの区別として付けられたものが多く、結果として旧国名が駅名として固定されました。
私は、関東で旧国名がここまで生き残ったのは、明治から昭和の鉄道会社が路線名に採用したからだと考えています。府県名は行政の都合で何度も変わりましたが、いったん付いた路線名と駅名は変えるコストが高く、そのまま残りました。摂津・河内のように市名で残った関西とは、残り方の経路が違っています。
よくある質問
関東の旧国名はいくつありますか?
8つです。武蔵・相模・安房・上総・下総・常陸の6国が東海道、上野・下野の2国が東山道に属していました。武蔵国だけは当初東山道に属し、771年(宝亀2年)に東海道へ移されています。
武蔵国は今のどこですか?
東京都のうち隅田川より西側と多摩地域、埼玉県のほぼ全域、神奈川県の川崎市全域と横浜市の大半です。1つの国が3つの都県に分かれている、関東でもっとも今の県境とずれた国です。
上総と下総はどちらが北ですか?
下総が北、上総が南です。都から近いほうを「上」と呼ぶ決まりですが、房総半島へは相模国から東京湾を船で渡って南側に上陸するのが正規ルートだったため、南の上総が「上」になりました。
群馬県と栃木県は、どちらが上野でどちらが下野ですか?
群馬県が上野(こうずけ)、栃木県が下野(しもつけ)です。もとは「毛野」というひとつのまとまりで、都に近い南西側が上毛野、遠い北東側が下毛野に分かれ、のちに「毛」の字が表記から落ちました。
まとめ
1. 関東にはかつて武蔵・相模・上総・下総・安房・常陸・上野・下野の8国があり、今の1都6県とは境目がずれている
2. ずれの原因は明治の県の再編で、境界に令制国ではなく川が使われた。埼玉県は最初「荒川より東」だけ、下総国は千葉・茨城・埼玉・東京の4つに割れた
3. 「上」は都に近いほう。ただし上総・下総だけは海路で測るので、南の上総が「上」になる
旧国名を頭に入れてから路線図を見ると、総武線・常磐線・両毛線という名前がぜんぶ地名の略称に見えてきます。他の地方の旧国名もあわせてどうぞ。
出典:埼玉県「県民の日」(県の誕生日・当初の県域・人口889,492人)/千葉県公式サイト「昔の千葉」(千葉県の誕生=明治6年6月15日、木更津県と印旛県の合併/明治8年、新治県の香取・海上・匝瑳の3郡を千葉県へ編入)/常陸国府跡・下野国庁跡は各自治体および国の史跡指定にもとづく記述。走水からの渡海は『日本書紀』の伝承にもとづきます。


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