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大阪の大和川、実は江戸時代に造られた川だった なぜ幕府は流れを丸ごと変えた?

大阪の大和川は、江戸時代に人が造った川です。柏原市から堺の河口までのおよそ14キロメートルは、1704年(宝永元年)に幕府が8か月足らずで通した新しい川筋で、それより前の大和川は、同じ柏原から北へ向かい、八尾・東大阪をぬけて大阪城の北で淀川に注いでいました。戦国時代の堺の北側に、今の大和川はありません。

ただし、幕府が流れを丸ごと変えた理由は、洪水を止めるためだけではありませんでした。

この記事でわかること

  •  1704年より前の大和川は、柏原から北へ流れて今の大川(旧淀川)に注いでいた
  •  幕府は付け替えの21年前に「付け替えはしない」と決めていて、住民運動が実って動いたのではない
  •  総工事費71,503両のうち幕府の負担は約3万7千両。旧河道を新田にした権利金 約3万7千両でほぼ回収した
大和川の広域地図。柏原市の築留から堺の河口まで西へ延びる赤い実線が1704年に造られた区間、八尾・東大阪から大阪城の北へ向かう青い破線がそれ以前の流れ
赤い実線が1704年に造られた区間、青い破線がそれ以前におおむね水が向かっていた方向です。破線は記事のための模式線で、古地図をなぞったものではありません。出典:国土地理院ウェブサイト(地理院タイル 淡色地図)を加工して作成
目次

戦国時代の堺には「今の大和川」がなかった

今の地図で堺市と大阪市を分けているのは大和川です。堺市堺区の北のふちを、幅180メートルほどの川が東西にまっすぐ横切っています。ところが戦国時代、堺の北にこの川はありませんでした。会合衆が町を治め、鉄砲を作り、南蛮船が入っていたころの堺は、北側を大きな川で区切られてはいなかったのです。

それを裏返しに証明しているのが、付け替えのあとに堺で起きたことです。柏原市の資料はこう書いています。

新しい大和川が運んでくる土砂が河口部にたまったことで、堺港は浅くなってきました。いくら改修しても港がすぐに埋まり、船が入れなくなりました。港の位置を何度も変更せざるを得なくなり、6回におよぶ改築工事が行われたにもかかわらず、埋没を余儀なくされたのです。

柏原市ウェブサイト「4.付け替え後」

川が来る前の堺は、海に面していたので高潮の被害はあっても、川の氾濫による被害はそれほどありませんでした。1704年に川が来たことで、港が埋まりはじめます。中世の自由都市として栄えた堺の港が衰退した理由のひとつが、この工事でした

読者

今の大和川がないなら、当時の水はどこへ行っていたんですか。

おかあさん

北です。柏原で石川と合わさったあと、西北へ折れて、今の八尾市・東大阪市のほうへ流れていました。

昔の大和川は大阪平野を北へ流れていた

1704年より前と後で大和川がどこを流れていたかを比べた模式図。前は柏原から長瀬川・玉串川すじを通って大阪城の北へ、後は柏原から松原・堺を通って大阪湾へ
1704年10月13日に古い堤防を切り、流れの向きが西へ変わりました。記事のための模式図です。出典:国土交通省 近畿地方整備局「大和川付替え300周年」、柏原市ウェブサイトをもとに作成

国土交通省 近畿地方整備局の資料は、付け替え前の姿をこう説明しています。

かつて、大和川は、柏原村で南から流れてくる石川と合流し、ここから西北へ折れて、久宝寺川(長瀬川)と玉串川(玉櫛川)に分かれて流れて、各川や池と合流しながら最後はそれぞれ淀川へと注いでいました。

国土交通省 近畿地方整備局「大和川付替え300周年|大和川の付替え」

ここに出てくる久宝寺川=今の長瀬川、玉串川=今の玉串川です。八尾市と東大阪市を流れているあの2本の水路が、当時の大和川の本流でした。

もっとさかのぼると、流れる場所は何度も変わっています。柏原市立歴史資料館の安村俊史氏は、7世紀ごろの本流は今の長瀬川のやや東(矢作ルート)、8世紀ごろは平野川ルートで、その平野川の流れが悪くなると再び長瀬川筋に戻り、江戸時代までそこが本流だったと書いています。河内・摂津・和泉という旧国名で呼ばれていたころから、大阪平野の川はずっと動き続けていました。

そもそも大阪平野そのものが、川が土砂を運んで埋めた土地です。約5,500年前の縄文時代中期、今の大阪には海が入り込んでいました(河内湾)。それが海水面の低下と、北の淀川・南の大和川が運ぶ土砂によって河内潟になり、河内湖になり、やがて平野になります。

読者

どうして北へ流れていたんでしょう。堺のほうが近いのに。

おかあさん

北が低いからです。国土地理院の標高データで測ると、はっきり出ます。

国土地理院の標高APIで測った2本の断面図。上は柏原市の築留から大阪城の北まで13.6キロメートルで14.8メートルから1.2メートルへ下る。下は築留から堺方向へ16.5キロメートルで、いったん6メートル台まで下がったあと10.4メートルへ上がり返す
築留から北へ13.6キロメートルの地面は、14.8メートルから1.2メートルまで一方向に下ります。いっぽう西へ向かう線は、6メートル台まで下がったあと10.4メートルへ上がり返します。出典:国土地理院ウェブサイト(標高API)をもとに作成

柏原市の築留から北へ、大阪城の北まで13.6キロメートル。この線の上を約260メートルおきに測ると、14.8メートルから1.2メートルまで、ゆるやかに、しかし一方向に下っていました。水が北へ行くのは自然なことだったわけです。なお標高は現在の地面の値で、300年のあいだに堤防や盛土が入っています。1704年当時の地表そのものではありません。

河内平野を何度も襲った洪水

肥沃な土砂が運ばれる土地なので、古代から田畑が開かれ、人が住んでいました。同時に、洪水も繰り返していました。国土交通省の資料に残っている記録を並べます。

起きたこと
832年 8月の大風雨により河内・摂津に被害
1544年 畿内大洪水により、河内・摂津に甚大な被害
1563年 5月の8日間にわたる断続的豪雨により、河内国の半数が浸水、死者16,000人余
1620年 5月、志紀郡の堤防が決壊、水田24,000石分の被害
1633年 8月、柏原村をはじめとする各村の堤防が決壊、民家50軒、死者36人、水田20,000石分の被害

1563年の「河内国の半数が浸水、死者16,000人余」は、堺がまだ自由都市として栄えていたころの話です。原因は雨の量だけではありません。川が運んだ土砂が河底にたまり、まわりの田畑よりも河底のほうが高い「天井川」になっていたこと、河口にも土砂が積もって大雨のときに水が海へ抜けにくかったことが重なっていました。

治水に手を出した人は、江戸時代より前にもいます。788年、摂津大夫の和気清麻呂(わけのきよまろ)は、人夫およそ23万人を投じて大和川を大阪湾へ直接落とそうとしましたが、完成しませんでした。江戸時代に入ってからは河村瑞賢(かわむらずいけん)が安治川の改修と大和川の浚渫(しゅんせつ)を3年がかりで行っています。ところが瑞賢の死後、2年続けて大洪水が起き、年貢を納められない村が出ました。

住民たちは「川を大阪湾へ直接流してほしい」と訴えた

付け替えを求める運動がいつ始まったのかは、松原市の城蓮寺村に伝わった「新大和川堀割由来書上帳」(1796年)から逆算できます。柏原市の安村氏は万治2年(1659年)と見ています。付け替えが決まる44年前です。

運動の中心にいたのは、芝村(今の東大阪市中石切町のあたり)の曽根三郎右衛門と、吉田村(今の東大阪市吉田のあたり)の山中治郎兵衛の2人だったと、同じ史料に書かれています。

嘆願の理由は、洪水を防ぐことだけではありませんでした。国土交通省の資料はこう書いています。

嘆願の理由は、この付替えによって、15万石以上にもおよぶ村々が水害の被害をまぬがれ、旧河床には新田が開けて作物の増収が期待できるから、というものでした。

国土交通省 近畿地方整備局「大和川付替え300周年|大和川の付替え」

そしてもうひとつ、教科書ではあまり触れられないことがあります。新しい川が通る側の村は、付け替えに反対していました。1660年(万治3年)の検分に対して、志紀郡・丹北郡・住吉郡の村々が出した反対の嘆願書には、田地・屋敷が川底になる、領地が分断される、北へ流れていた井路川が新しい堤にせき止められて、南側は水がたまる「水損場」に、北側は水源を失う「日損場」になる、と訴えられていました。

読者

幕府はすぐ動いたんですか。

おかあさん

逆です。3か月かけて近畿一円を調べたうえで、「付け替えはしない」と結論を出しています。

1683年(天和3年)、若年寄の稲葉正休、大目付の彦坂重紹、勘定頭の大岡清重らが幕府から任命され、畿内の川を検分しました。経路は、京都から賀茂川・白川・桂川、保津川をさかのぼり、淀・鳥羽・伏見と淀川を下って大坂へ。大和川を亀の瀬まで上がり、深野池・新開池まで下り、備前島・片町・京橋をまわって平野川をさかのぼり、狭山池まで上ってまた下り、瓜破・依羅池・手水橋という付け替え候補地を見る。さらに船で神崎川・尼崎・堺・住吉・大坂と湾岸をまわり、石川を赤坂まで、亀の瀬を越えて生駒・初瀬・奈良・木津・宇治・石山・瀬田をへて京都へ帰っています。約3か月の調査でした。

この検分には治水に詳しい伊奈半十郎と河村瑞賢も同行し、結論は「瑞賢が主張した淀川河口の治水工事などを実施すれば大和川の洪水はなくなる、付け替えは不要」というものでした。

幕府が大和川付け替えを決断したもう一つの理由

付け替えの理由のうち、いちばん語られていないのがここです。柏原市の広報コラムはこう書いています。

付け替えよりも21年前に幕府は決して付け替えをしないと決めていました。そのため、みんな付け替えをあきらめ、水がうまく流れるような治水工事を求める運動に変わり、その運動もほとんどなくなったころ、幕府は急に付け替えることを決めたのです。

柏原市ウェブサイト「【コラム】大和川のつけかえ ほんとうの理由は?(1)つけかえをめぐって」

運動に参加する村は2年ほどのあいだに5分の1くらいに減り、付け替え直前には7分の1程度になっていた、とも書かれています。運動が盛り上がって幕府が折れたのではなく、運動が消えかけたころに幕府が自分の都合で決めた、という順序です。

では、その都合とは何だったのか。仕組みを考え出したのは、上方代官の万年長十郎(まんねんちょうじゅうろう)でした。

大和川付け替え工事の費用の図解。幕府が負担した工事費 約3万7千両と、新田開発の権利金 約3万7千両が等しいことを示す図と、総工事費71,503両などの数字の表
幕府が出した約3万7千両と、旧河道に開く新田の権利金 約3万7千両がほぼ同額でした。出典:柏原市ウェブサイト(広報コラム/3.付け替え工事)、国土交通省 近畿地方整備局「大和川付替え300周年」をもとに作成

やったことは3つです。①川底をほとんど掘らず、両側に堤防を盛る工法にして土を動かす量を減らす。②工事を大名に手伝わせて、その分の費用を大名に負担させる。③付け替えたあと、元の川筋を新田として開発する権利を売り、その権利金を工事費に充てる。

柏原市の広報コラム(2022年11月号)は、結果をこう書いています。「幕府が付け替え工事で負担した費用は約3万7千両。新田開発の権利金で約3万7千両が入っています。つまり工事費はすべて戻ってきたのです。しかも新田からは毎年年貢が入ってきます」。

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数字は出どころで意味が違います。国土交通省の資料にある「約71,503両」は総工事費で、大名の負担分を含みます。柏原市の「約3万7千両」はそのうち幕府が出した分です。同じ工事の別の数字なので、混ぜて読まないでください。

中甚兵衛は「幕府を動かした英雄」ではない

大阪府内の小学4年生は、この工事を社会科で時間をかけて習います。そこで必ず出てくるのが、今米村(今の東大阪市今米)の庄屋・中甚兵衛(なかじんべえ)です。ところが柏原市は、公式サイトでこう書いています。

また、中甚兵衛が私財を投げ打って付け替え工事を行ったという話もありますが、これもまったくでたらめです。工事を行ったのは幕府です。(中略)中甚兵衛は百姓たちのリーダーであったのではなく、ヒーローでもなかったのです。衰え行く運動を必死になって続けていた人物だったのです。

柏原市ウェブサイト「大和川つけかえと中甚兵衛」(文責:安村俊史)

ただし同じ文章は、こうも続けています。「この運動の継続が付け替え工事につながったことは間違いありません。甚兵衛らの運動がなかったら、付け替え工事は実現していなかったかもしれません」。

読者

学校で習ったのは、まちがいだったということですか。

おかあさん

役割の大きさが違っていた、ということです。消えかけた運動を1人で続けた人と、それを利用して採算の合う工事に組み替えた役人。両方いて成立しています。

わたしはこの話を、英雄譚から引きはがしたほうがずっと面白いと思っています。1人の情熱で幕府が動いたのなら、それは奇跡の話で終わります。実際に動かしたのは「工事費がぜんぶ戻ってくる設計」でした。公共事業が動くかどうかは、正しさではなく採算で決まる——300年前に決まったこの川筋は、その見本になっています。

約14kmの川をわずか8カ月で造った江戸時代の大工事

1703年(元禄16年)10月28日、幕府は付け替えを正式に決定します。着工は翌年2月27日。『河内堺新川絵図』には、この日が「御鍬初」として記されています。

項目 数字
総延長 131町=約14キロメートル(資料により約14.3キロメートル)
100間=約180メートル
堤防の高さ 約5メートル
工事日数 225日
工事人員 1日あたり約1万人(見積もり244万人、実際は300万人近く)
総工事費 約71,503両

難しかったのは、距離ではなく方向です。先ほどの断面図の下の段が示しているとおり、築留から西へ向かう地面は、いったん6メートル台まで下がったあと10.4メートルまで上がり返します。瓜破台地や浅香山のような高い土地が、南から北へ張り出しているためです。柏原市の資料は「海までの高低差約20メートル、自然では絶対流れない方向に川をつくらねばならず、容易にできるものではありません」と書いています。

そこで、平らな低地はそのまま川底にして両側に堤防を積み、台地のところだけ掘る、という組み合わせで傾斜を作りました。計画された川底の傾きは1町(109メートル)につき4寸(12センチ)。浅香のあたりで大和川が大きく曲がっているのは、地盤の固い上町台地を避け、もとからあった依網池(よさみいけ)と狭間川(はざまがわ)を利用したからです。

工事が止まりかけた1か月目

順調ではありませんでした。工事を任された姫路藩主・本多忠国が、着工から1か月もしないうちに死去します。姫路藩の家臣は全員引き上げ、1.1キロメートル進んだところで工事は中断。このまま中止になるのではという噂が立ちました。幕府はすぐに、今度は川上から工事を始めて噂を断ち切ります。

その後、岸和田・三田・明石・高取・柏原の各藩が担当区間を割り振られました。全体から姫路藩の1.1キロメートルと、上流で幕府が受け持つ5.7キロメートルを除いた7.5キロメートルを3等分し、1藩あたり2.5キロメートルずつ。手伝わされた藩は、工事の恩恵をまったく受けない土地の大名たちでした。

現場の記録も残っています。城蓮寺村(今の松原市天美の一部)の記録によると、村では工事に先だって青いままの麦まで刈り取ったのに、刈り入れの終わっていない麦畑が人足の足場や土置き場になってしまいました。待ってほしいと願い出たものの、3分の1ほどの刈り入れが残ったまま堤の敷地になった、と書かれています。

急いだ跡は、地面の下にも残っています。藤井寺市内で行われた堤防の発掘調査では、堤防がほとんど砂で築かれていたことが確認されました。砂の堤は崩れやすく、工事を急いだことを示している、と柏原市は説明しています。

1704年10月13日、付け替え地点の古い堤防を切り崩し、旧川筋をふさいで工事は完了しました。このふさいだ場所が「築留(つきどめ)」です。3年がかりと見られていた工事は、8か月足らずで終わりました。

消えた大和川は「新田」に変わった

新田の開発は、付け替えの翌年6月ごろに始まり、1708年(宝永5年)2月ごろまでにすべて終わっています。古い堤防を崩して川を埋め、水路と道を造り、家を建て、田畑を耕す。その3年間は年貢が免除され、4年目からかかりました。

数字で見ると、新しい川で失われた田畑は275町歩、新田として開発された田畑は1,000町歩あまり。付け替え前より田畑の面積は増えています。開発する権利は地代金を払う落札で決まり、有力な町人や地元の庄屋が共同で入りました。もっとも大きかったのが新開池に開かれた鴻池新田で、築留にも市村新田が開かれています。

ただ、すぐに豊かな実りになったわけではありません。旧河川敷は水田に向かず、多くは畑として使われました。しかも収穫量の少ない下畑・下々畑が大半です。そこで広がったのが、砂地で水はけのよい土地を好む綿でした。河内では、田の周囲を掘り下げた土を中央に盛って作った畝に綿を、低い部分に稲を植える「島畠(しまばた)」が広がり、河内木綿は丈夫だと評判になって全国へ出荷されます。

いっぽうで、反対していた村が言っていたことは、そのまま現実になりました。西除川と東除川を分断したため、川の南側では水はけが悪くなり、たびたび洪水が起きるようになります。とくに西除川の下流はひどく、1982年(昭和57年)にも大水害が起きました。北側では水不足に悩み、樋を伏せて対応したものの十分には解決しなかった、と柏原市は書いています。

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長瀬川・玉串川・平野川に残る旧大和川の痕跡

捨てられた川筋は、埋められて消えたわけではありません。旧大和川の幅は100〜300メートルもありましたが、その中心部分が水路として残されました。それが今の長瀬川と玉串川です。

八尾市の説明を引用します。

大和川の付け替えに伴い1705年(宝永二年)に供用が開始された「西用水井路(現在の長瀬川)」と「東用水井路(現在の玉串川)」の2つの水路を「大和川分水築留掛かり」と呼んでいます。(中略)現在でも、八尾市を流れる長瀬川と玉串川は大和川から取水する農業用水路として機能し、また、市街地の貴重な水辺空間として大きな役割を果たしています。

八尾市ウェブサイト「「大和川分水 築留掛かり」(長瀬川・玉串川)が世界かんがい施設遺産に登録されることが決定しました」

この2本は2018年8月13日、カナダで開かれた国際かんがい排水委員会(ICID=アイシッド/国際かんがい排水委員会)の第69回国際執行理事会で、世界かんがい施設遺産に登録されています。桜並木で知られる玉串川も、遊歩道が整備された長瀬川も、300年前の大和川の本流跡です。

水を取り込む口も残っています。築留に伏せられた一番樋・二番樋・三番樋のうち、二番樋と三番樋は今も使われていて、1888年(明治21年)にレンガ積みに改築された二番樋は国の登録有形文化財になっています。

八尾市と東大阪市の治水地形分類図。黄色い帯状の微高地(自然堤防)が南北に何本も走り、長瀬川と玉串川の位置が示されている
国土地理院の治水地形分類図。黄色い帯は「微高地(自然堤防)」で、川がくり返しあふれて砂や礫をためた高まりです。出典:国土地理院ウェブサイト(地理院タイル 治水地形分類図 更新版)を加工して作成

地図でも見えます。国土地理院の治水地形分類図を八尾市・東大阪市にかけると、うすい緑(氾濫平野)の上に、黄色い帯が南から北へ何本も走っています。この黄色は「微高地(自然堤防)」で、国土地理院は「河川の氾濫が繰り返し発生すると、河川沿いに砂・礫が溜った高まりが形成されます」と説明しています。帯が南北に走っているのは、かつてここを流れていた川が南北方向だったからです。

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この黄色い帯を、そのまま「江戸時代の大和川の跡」と読み替えないでください。治水地形分類図は明治から昭和にかけての地図と空中写真から作られていて、江戸時代以前の流路を示したものではありません。
八尾市・東大阪市の同じ範囲を上下に並べた空中写真。上は1961年から1969年に撮影されたもので水田が広がり、下は現在で住宅地に埋まっている
同じ範囲の1961〜1969年と現在。古い写真では、集落が細い線のようにつながって並んでいるのが見えます。出典:国土地理院ウェブサイト(地理院タイル 1961〜1969年撮影の空中写真/全国最新写真)を加工して作成

1961〜1969年の空中写真を見ると、まだ一面が水田です。そのなかで、家が細い線のようにつながって並んでいる場所があります。まわりより少しだけ高い自然堤防の上に、集落と道が乗っているからです。現在の写真では同じ場所が住宅で埋まり、線はもう見えません。

柏原市は、歩いて確かめられる場所も挙げています。JR大和路線(ジェイアール大和路線)の西側が周辺より高いのは、旧大和川の堤の名残です。旧堤防は神社や墓地として使われたところが多く、柏原市古町の古町墓地、八尾市天王寺屋の稲生神社、八尾高校の中に残る狐山などが、今も昔の堤の上にあります。

私たちが暮らす大阪の地形は、300年前の治水工事で変わった

ここで、ひとつ気をつけたい読み方があります。「昔の川筋だから地盤が弱い」という決めつけです。実際に測ると、そう単純ではありません。

八尾市を北緯34.630度の線に沿って東西6.9キロメートル測った標高の断面図。長瀬川の位置で地面が7.7メートルから10.2メートルへ上がっている
長瀬川をはさんで、西側が7.7メートル、東側が10.2メートル。旧河道のまわりが低いとはかぎりません。出典:国土地理院ウェブサイト(標高API)をもとに作成

八尾市を東西に6.9キロメートル、約91メートルおきに77地点で標高を測りました。長瀬川のすぐ西が7.7メートル、東へ300メートルほど行くと10.2メートル。旧河道のまわりのほうが、少し高いのです。付け替え前の大和川が天井川だった——まわりの田畑より河底が高かった——ことを考えれば、これはおかしなことではありません。

だからこの記事では「旧河道だから危険」とは書きません。書けるのは、地形は場所ごとに違うので、地名の印象ではなく地図と数字で確かめるしかないということだけです。調べ方は無料の公的サイトでそろいます。

  • 国土地理院「地理院地図」で治水地形分類図と標高を重ねて見る
  • お住まいの市のハザードマップで、洪水・内水・土砂の3つを別々に確認する
  • 古い空中写真(1961〜1969年)で、宅地になる前が何だったかを見る

やり方をまとめた記事があります。土地の標高の調べ方と、昔この土地は何だった?「土地の履歴」を無料で調べる4つの方法です。ハザードマップの色をどこまで気にすればいいのかは、ハザードマップ、気にしすぎでしょうかにまとめています。

300年後の土地の値段

最後に、この工事がなぞった線の上に今いくらの値段がついているかを並べます。国土交通省の不動産情報ライブラリから取った、直近2年の土地取引の中央値です。

市区 この工事との関係 土地の中央値(円/坪) 件数
大阪市住吉区 新しい川の北岸 991,734 62
大阪市平野区 新しい川の北岸 859,503 50
堺市堺区 新しい川の河口 760,329 97
東大阪市 旧河道・新田 595,040 241
八尾市 旧河道・新田 528,925 131
松原市 新しい川が通った側 363,636 72
柏原市 工事の起点(築留) 247,934 41
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この差を付け替えのせいにはできません。土地の値段は駅からの距離・都心への時間・用途地域でほとんど決まります。ここに並べたのは、300年前の工事がなぞった線の上に、今これだけ人が住んで値段がついている、という事実だけです。

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街そのものをもう少し知りたい方は、東大阪市はどんな町?堺市ってどんな町?もどうぞ。

まとめ

  • 1704年より前、大和川は柏原から北へ流れ、長瀬川・玉串川すじを通って淀川に注いでいた。戦国時代の堺の北に、今の大和川はない
  • 北へ流れていたのは、地面が北へ下っているから。築留から大阪城の北まで13.6キロメートルで14.8メートルから1.2メートルへ下る
  • 幕府は付け替えの21年前に「しない」と決めていた。運動が消えかけたころ、方針が変わった
  • 決め手は採算。総工事費71,503両のうち幕府の負担は約3万7千両で、旧河道に開いた新田の権利金 約3万7千両で回収した
  • 工事は1704年2月27日から10月13日までの225日。1日約1万人が働き、堤は砂で築かれた場所もあった
  • 捨てられた川筋は長瀬川・玉串川として今も水を流し、2018年に世界かんがい施設遺産に登録された
  • 旧河道のまわりが低いとはかぎらない。長瀬川の西は7.7メートル、東は10.2メートル。地形は地図と数字で確かめる

堺の北に川がなかった時代から、300年。今その川は当たり前にそこにあって、市の境になり、電車が渡り、河川敷でだれかが走っています。当たり前に見えるものほど、だれかが決めて、だれかが掘っています。

出典・参考資料

柏原市・国土交通省の各ページに掲載されている古地図・絵図(大和川付替地図、摂河両国水脈図、川違新川図など)は、それぞれのサイトの著作権表示にしたがい転載していません。実物はリンク先でご覧いただけます。

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この記事を書いた人

ハウスメーカー2社で営業職を経験し、不動産・建築の基礎を習得。
その後、地域密着型の不動産会社にて営業事務として勤務し、
契約書作成、ポータルサイト管理、物件情報の入力・更新など、
実務全般に携わってきました。

特に、ポータルサイトを「より魅力的に見せる工夫」や、
反響につながる「分かりやすい間取り図作成」を得意としています。
自分が関わった物件に反響があった時の喜びが、今の原動力です。

現在は子育てのため一線を退いていますが、
これまでの実務経験を活かし、
フリーランスとして不動産会社様向けの
バックオフィスサポート業務を開始しました。

現場目線を大切にしながら、
「早く・正確に・伝わる」業務サポートを心がけています。

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