今年、あなたの町の櫓(やぐら)は立つでしょうか。総務省が10年続けて数字を追えた600市区町村では、自治会・町内会の加入率が2010年度の78.0%から2020年度は71.7%まで落ちました。下がった団体は530(88.3%)、上がったのは14団体(2.3%)だけです。櫓を組んで提灯を吊るす側の人手は、確実に細っています。
その盆踊りは、もともと生きている人の娯楽ではありませんでした。輪の中心にいたのは、お盆に帰ってきた死者です。踊りは死者を迎え、慰め、送り返すための作法でした。ここでは盆踊りが1000年かけてどう変わったのかと、なぜ土地ごとに踊り方がこれほど違うのかを、記録に残っている事実からたどります。
先に結論|盆踊りの由来と、地域差の正体
- 盆踊りは、仏教行事の「盂蘭盆会」と、念仏を唱えながら踊る「踊り念仏」が室町時代に合流してできた
- 目的は死者の供養。輪になるのは、帰ってきた死者と一緒に踊るため
- 地域差を生んだのは4つ。①踊る目的 ②領主が奨励したか ③船でどの唄が届いたか ④明治の禁止と昭和の音頭化をどこまで受けたか
- 明治7年(1874年)、政府は盆踊りを禁じた。いま国が指定する踊りは、その禁令をくぐり抜けた土地のものだけ
- 町内会の盆踊りは1933年の「東京音頭」以降に広がった新しい形。1000年の直系ではない
盆踊りの由来は「お盆」と「踊り念仏」が合わさったもの
盆踊りは、ひとつの行事から枝分かれしたのではありません。祖先を迎える仏教行事の「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と、念仏を唱えながら踊る「踊り念仏」という別々の流れが、室町時代に合流してできた形です。まず1000年の流れを一枚にまとめます。

お盆の帰省そのものについては お盆に実家へ帰ったら、前の道の幅を測ってください でも書いています。
「お盆」の語源は、いまも決着していない
『日本書紀』には推古天皇14年(606年)に七月十五日の設斎(せさい)を諸寺に行わせた記録があり、これが日本のお盆のはじまりとされます。斉明天皇3年(657年)には飛鳥寺の西に須弥山(しゅみせん)の像を作って盂蘭盆会を行った記録も残っています。行事としては1400年さかのぼれます。
ところが「盂蘭盆」という言葉の由来は、いまも定まっていません。古くはサンスクリット語の avalambana が変化したもので「倒懸(とうけん)」=逆さ吊りの苦しみを指す、という説が通ってきました。『盂蘭盆経』で目連(もくれん)が餓鬼道に落ちた母を救おうとする話と結びつくのは、この読み方です。これに対し、古代イラン語で死者の霊を意味する urvan(ウルヴァン)を語源とする説(岩本裕)や、サンスクリット語の pravāraṇā が中央アジアで uravāṇa に変化したものだとする説もあります。1400年続いている行事なのに、名前の意味が確定していないのがお盆です。
踊りながら念仏を唱えた空也と一遍
踊りの側の起源は、平安時代中期の空也(くうや)にさかのぼります。空也は念仏を唱えながら踊る「踊り念仏」を始めたと伝わります。これを民衆の中へ持ち込んだのが、鎌倉時代の一遍(いっぺん)でした。
『一遍上人絵伝』には、弘安2年(1279年)に信濃国佐久郡小田切(いまの長野県佐久市)で、念仏を唱えていた僧たちが喜びのあまり踊り出した場面が描かれています。念仏を唱えれば極楽へ往生できるという確信が、そのまま身体の動きになった。一遍と時衆(じしゅう)は各地を歩いてこれを見せて回り、踊り念仏は全国へ広がります。長野県佐久市に伝わる「跡部の踊り念仏」は、この流れをくむ行事としていまも残り、2022年にユネスコ無形文化遺産にも登録されました。

笛・太鼓・鉦の囃子に合わせて踊ること。これが文化庁の定義する「風流踊」の条件のひとつ
室町時代に「風流」と混ざって、見せる踊りになった
室町時代に入ると、踊りは宗教行事の枠から出ます。ここで結びついたのが「風流(ふりゅう)」でした。風流とは、衣装や持ちものに趣向を凝らして人目を奪う美意識のことです。文化庁は風流踊を、風流の精神を体現し、衣裳や持ちものに趣向をこらして、歌や笛・太鼓・鉦などの囃子に合わせて踊る民俗芸能だと説明しています。応仁・文明の乱のあと、この風流踊は各地でいっそう盛んになりました。
祈りだった動作に、見せる意識が乗る。ここで盆踊りは「供養」と「見せ物」という二つの顔を持ちました。この二重性が、のちの地域差をすべて説明します。供養に軸足を残した土地と、見せる方へ傾いた土地で、踊りはまったく別の形に育っていきます。
江戸時代の盆踊りは、出会いの場でもあった
江戸時代に入ると、盆踊りは各地で盛大になります。江戸では7月から10月まで連日踊り続けたとも伝えられます。
同時に、夜通し男女が集まる場という性格も強まります。村の外の相手と出会える機会は、当時ほとんどありませんでした。踊りの輪はその数少ないひとつで、取り締まりの記録が増えるのもこの時期からです。明治政府がのちに持ち出す禁止の理由は、江戸期にすでに出そろっています。
岐阜県郡上市の郡上おどりは、この時代の産物です。江戸時代に城主が士農工商の身分を越えた融和をはかるため、村々で踊られていた盆踊りを城下に集めたと伝わります。郡上おどりが「見るおどり」ではなく「踊るおどり」と呼ばれ、観光客も地元の人も同じ輪に入るのは、身分をまぜる装置として始まったからです。いまも7月中旬から9月上旬まで30夜以上開かれ、8月13日から16日の4日間は夜を徹して踊ります。曲は「かわさき」「春駒」「三百」「げんげんばらばら」など全10種類あります。
明治政府は、盆踊りを禁止した
明治7年(1874年)ごろ、各地で盆踊りの禁令が出ます。岐阜県と奈良県が明治7年に禁止、愛媛県は明治10年に自粛勧告、明治14年に禁止。夜通し男女が騒ぎ、女装や男装をする行事は近代国家にふさわしくない、という理屈でした。
明治中期にはいったん緩みます。明治21年(1888年)の新聞には、警察がこれを黙認していたという記述が出てきます。ところが明治41年から44年にかけて、第二次桂内閣の文部大臣と内務大臣が「盆踊り退止」を掲げて回り、生産の妨げであり風俗を乱すものだとして廃止を説きました。この結果、明治の終わりから大正の初めにかけて、各地の農村が盆踊りをやめています。20世紀初頭には、地域によっては行われているかどうかも分からないほど衰えたとされます。
復活したのは大正末期です。農村の娯楽として奨励され、各地でふたたび踊られるようになりました。いま国が重要無形民俗文化財に指定している盆踊りは、この禁止と中断をくぐり抜けて戻ってきたものだけです。2022年11月30日にユネスコ無形文化遺産へ登録された「風流踊」41件は、その生き残りの一覧でもあります。
1933年「東京音頭」が、全国を同じ踊りにした
復活した盆踊りの姿を決めたのは、寺でも役所でもなくレコードでした。1932年(昭和7年)に日比谷公園の盆踊り大会で披露された「丸の内音頭」が、翌1933年(昭和8年)に「東京音頭」と改題・改詞され、小唄勝太郎と三島一声の歌でビクターから発売されます。作詞は西條八十、作曲は中山晋平。これが爆発的に流行しました。
ここで何が起きたかを、少しだけ丁寧に見ます。それまで盆踊りの唄は、その土地の音頭取りが口伝えで受け継ぐものでした。誰が唄えるかで踊れる曲が決まり、曲が変われば振りも変わる。レコードとラジオは、この仕組みを飛び越えます。土地と関係のない同じ曲が、全国の櫓に同時に届くようになりました。
曲が共通になれば、振りも共通になります。都市の新しい町内会も、戦後の団地や新興住宅地も、地元の唄をひとつも持たないまま「東京音頭」と「炭坑節」で盆踊りを始めることができました。いまの町内会の盆踊りは、1000年の歴史の直系ではなく、昭和のレコードが配った新しい形です。

提灯に並ぶ地元の店や会社の名前。町内会の盆踊りは、この寄付と役員の手弁当で成り立っている
盆踊りの踊り方は大きく3つに分かれる
「盆踊り」と一語でくくられていますが、踊り方は3つの型に分かれます。輪に入れるかどうかからして違います。

ひとつめは輪になる型。広場の中央に櫓を立て、その周りを回りながら音頭に合わせて踊ります。全国でいちばん多い形で、いつ入っても、いつ抜けてもかまいません。東京音頭も炭坑節もこの形で全国へ広がりました。
ふたつめは列で進む型。通りを練り歩くので、踊る人と見る人が分かれます。徳島の阿波踊りや、沖縄のエイサーの道ジュネーがこれにあたります。エイサーには集落の家々を回って祝儀を集め、青年会の活動資金にするという機能もあります。

列で進む型。踊り手と見物人がはっきり分かれるのが、輪踊りとの決定的な違い
みっつめは同じ唄で別々に踊る型です。岡山県笠岡市の白石島に伝わる白石踊は、ひとつの音頭に対して男踊り・笠踊り・奴踊り・鉄砲踊り・真影踊り・女踊り・大師踊り・阿亀踊り・娘踊り・扇踊り・二つ拍子踊り・梵天踊り・ブラブラ踊りの13種類を、それぞれ違う扮装と振付で同時に踊ります。源平合戦の戦死者を慰めるために始まったと伝えられ、他にほとんど例のない形です。
地域で踊り方が違うのは、この4つが違うから
ここからが本題です。踊りの型・唄・衣装の差は、偶然ばらけたわけではありません。4つの条件の差から生まれています。

理由1|何のために踊るか
供養が中心の土地では、踊りの「終わり方」に儀式が残ります。
長野県阿南町の新野(にいの)の盆踊は、楽器を一切使いません。三味線も太鼓も笛もなく、櫓の上の音頭取りの「音頭出し」と、踊り手の「返し」の声だけで進みます。8月14日の夜9時から、17日の明け方まで。最終日は精霊を送る「踊り神送り」で終わりますが、送ってしまえばもう踊れません。だから踊り手は行列を阻もうと小さな輪を作り、踊り続けて引き延ばそうとします。この押し問答が祭りの山場です。踊りが供養そのものである土地では、こうして「終われない」という形が儀式に組み込まれます。
秋田県羽後町の西馬音内(にしもない)の盆踊では、踊り手が目元だけ穴の開いた袋状の「彦三(ひこさ)頭巾」を頭からかぶります。顔を隠して先祖の霊とともに踊る姿から、この踊りは「亡者踊り」と呼ばれます。輪を描くように横に一回転する動きは輪廻転生を意味するとも言われます。衣装は端縫い(はぬい)衣装と藍染めの浴衣。1981年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。
一方、郡上おどりや阿波踊りは娯楽と交流に軸足があります。同じ盆の行事でも、目的が違えば残る形が違う。それだけの話です。
理由2|誰が奨励したか
領主が関わった土地は「全員参加型」に、商人の富が乗った土地は「見せる芸」に育ちました。
郡上は前者です。藩が城下に踊りを集め、身分の違う人間を同じ輪に入れました。だから今も踊り手と観客の区別がありません。
徳島の阿波踊りは後者です。天正14年(1586年)に蜂須賀家政が徳島城の完成祝いに無礼講で踊りを許したという築城起源説が知られていますが、これを裏づける史料は残っていません。徳島県自身も、盆踊りを基に組踊り・ぞめき踊り・俄(にわか)などの民衆芸能を取り込みながら定着したものと説明しています。踊りを育てたのは吉野川中下流域の藍業でした。藍商の富が人形浄瑠璃や三味線といった芸事を養い、その延長に「連」という見せるための単位が生まれます。
理由3|どの航路で唄が届いたか
踊りの差は、地形と物流の差でもあります。海を通った唄は、寄港地ごとに名前を変えながら根づきました。

熊本県天草の牛深に伝わる「牛深ハイヤ節」は、北前船の船乗りによって北へ運ばれました。島根の浜田節、京都・宮津のハイヤ踊り、新潟の佐渡おけさと寺泊おけさ、山形の庄内ハエヤ節、青森の津軽アイヤ節、北海道の江差餅つきばやし。名前も節も違いますが、同じ唄から枝分かれしたものです。
佐渡おけさの道筋は特にはっきりしています。牛深から小木港へ渡って「小木おけさ」となり、それが相川の佐渡金山の鉱夫に伝わって「選鉱場節」という哀愁のある節に変わりました。1906年(明治39年)に「相川おけさ」、1921年(大正10年)の第二回全国民謡大会でようやく「佐渡おけさ」として世に出ます。港を持つ土地には外から唄が入り、内陸には土地の唄が残った。地図の上で唄が濃淡になっているのは、そのためです。
理由4|禁止と音頭化をどこまで受けたか
最後の条件が、近代の2つのふるいです。
ひとつめは明治の禁止令。ここで踊りをやめた集落は、音頭取りが世代交代する前に途切れました。口伝えの芸は、一度止まると戻せません。ふたつめは昭和の音頭化。地元の唄が弱っていた土地ほど、レコードの「東京音頭」がすんなり入り、固有の振りは上書きされました。
逆に言えば、いま国が指定し、ユネスコに登録された41件は、この2つのふるいを両方くぐり抜けた土地のものです。共通しているのは、踊りが娯楽ではなく生活の儀式に食い込んでいたこと。新野が「送ったら踊れない」形を守り、西馬音内が顔を隠す作法を守ったのは、それをやめると盆が終わらないからでした。
有名な盆踊り6つを、型と由来で並べる
| 踊り | 場所 | 型 | 由来と特徴 |
|---|---|---|---|
| 郡上おどり | 岐阜県郡上市 | 輪 | 城主が身分の融和のため城下に集めたと伝わる。7月中旬〜9月上旬に30夜以上、8/13〜16は徹夜。全10曲 |
| 西馬音内の盆踊 | 秋田県羽後町 | 輪 | 彦三頭巾で顔を隠し、先祖とともに踊る「亡者踊り」。1981年に国指定 |
| 新野の盆踊 | 長野県阿南町 | 輪 | 楽器を使わず声だけで踊る。8/14夜〜17明け方の「踊り神送り」まで。1998年に国指定 |
| 白石踊 | 岡山県笠岡市・白石島 | 同時多種 | ひとつの音頭に13種の振りを同時に踊る。源平合戦の戦死者供養が由来と伝わる |
| 阿波踊り | 徳島県 | 行列 | 築城起源説には史料の裏づけがない。盆踊りに組踊り・ぞめき踊りが加わって成立。藍業の富が支えた |
| エイサー | 沖縄県 | 行列 | 旧盆に青年会が集落を練り歩く道ジュネー。念仏踊りが元とする説と、1479年の記録に遡る説がある |
音頭化をどう見るか、私の立場
私は、レコードによる音頭化を「伝統が壊れた」とは見ていません。理由は2つあります。
ひとつは、壊れる前にすでに止まっていたからです。明治の禁令で各地の農村が盆踊りをやめており、20世紀初頭には存在自体が疑われるほど衰えていました。「東京音頭」が入ってきたのは、失われた場所を埋める側の出来事でした。もうひとつは、音頭化が配ったのが曲だけでなく「誰でも輪に入れる」という形だったことです。地元の唄も血縁も持たない都市の住人が、その日から踊りに参加できる仕組みは、それまでの盆踊りにはありませんでした。
ただし、失ったものも正確に書いておきます。土地の名前や地形が歌詞に入った唄は、音頭取りが途切れると復元できません。文献が残っていても、節回しと間合いは口伝えでしか渡らないからです。国の指定やユネスコ登録は、この復元不能なものに対する保険だと私は考えています。残っているものを守るのが安く、失ってから戻すのは不可能に近い。41件という数字は、多いのではなく、ここまで減ったという数字です。
引っ越し先に盆踊りがあるかは、その町の付き合いの濃さが分かる
盆踊りを開いているのは、いまはほとんどが自治会・町内会です。つまり盆踊りの有無は、その地域の共同体がまだ動いているかどうかの目印になります。
内閣府が1,157市区町村に聞いた調査では、自治会の現在の課題として「役員・運営の担い手不足」を挙げた自治体が86.1%、「役員の高齢化」が82.8%、「近所付き合いの希薄化」が59.2%、「加入率の低下」が53.3%でした。冒頭の加入率と合わせると、櫓が立たなくなる理由は資金より人です。
住み替えを考えているなら、内見のときに現地の掲示板を見てください。盆踊りや夏祭りの案内が貼ってあれば、回覧が回り、役員が決まり、会計が回っているということです。逆に掲示板が空のままなら、ごみ集積所の管理や防災訓練も同じ状態にあると見て、ほぼ外れません。土地の値段には出ませんが、住んでからの手間には確実に出ます。
市区町村ごとに、人口の推移と世帯の構成をまとめています
よくある質問
盆踊りはいつから始まったのですか
お盆の行事としては『日本書紀』の推古天皇14年(606年)の記録までさかのぼります。踊りの側は平安時代中期の空也の踊り念仏が起源とされ、鎌倉時代の一遍が全国へ広げました。両者が合流して現在の盆踊りの形になるのは室町時代です。
なぜ櫓を囲んで輪になって踊るのですか
盆踊りは、お盆に帰ってきた死者を迎え、慰め、送り返すための踊りとして始まりました。輪になるのは、死者と生者が同じ場で一緒に踊るための形です。秋田県羽後町の西馬音内の盆踊で踊り手が彦三頭巾で顔を隠すのは、先祖の霊とともに踊ることを姿で表しているとされます。
日本三大盆踊りはどれですか
岐阜県の郡上おどり、徳島県の阿波踊り、秋田県の西馬音内の盆踊の3つを指すことが多い呼び方です。国の指定や公的な選定ではなく、慣用的な言い方です。
「東京音頭」はいつの曲ですか
1932年(昭和7年)の「丸の内音頭」を改題・改詞して、1933年(昭和8年)にビクターから発売されました。作詞は西條八十、作曲は中山晋平、歌は小唄勝太郎と三島一声です。
盆踊りはユネスコ無形文化遺産なのですか
盆踊り全体ではなく、盆踊りや念仏踊りを含む「風流踊」41件が2022年11月30日にユネスコ無形文化遺産の代表一覧表に記載されました。郡上踊、西馬音内の盆踊、新野の盆踊、白石踊、跡部の踊り念仏などが含まれます。
この記事の出典
- 文化庁「『風流踊』のユネスコ無形文化遺産登録(代表一覧表記載)」(2022年11月30日)
- ユネスコ無形文化遺産「風流踊」公式サイト(構成41件の一覧・所在地)
- 総務省「地域コミュニティに関する研究会 報告書」(令和4年4月/自治会加入率の推移・内閣府アンケート)
- 奈良文化財研究所 飛鳥資料館「古代のお盆―盂蘭盆会―」(日本書紀の記録)
- 郡上八幡観光協会「郡上おどり」(開催日数・曲目・起源)
- 羽後町「西馬音内盆踊りの文化・歴史」
- 徳島県「阿波おどり」(起源の諸説・藍業との関係)
明治期の禁令の年次と府県(研究サイト「盆踊りの世界」に収録された各府県布達の記載を参照)、「盆踊り退止」の経緯、牛深ハイヤ節の伝播経路、白石踊・新野の盆踊の内容は、上記のほか各自治体・観光協会の公開資料および民俗芸能の一般的な解説にもとづいて整理しました。起源に諸説あるものは、そのことを本文中に明記しています。


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